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喜屋武朝徳先生と千歳先生

今回は、10年前の1997年8月、沖縄県立武道館落成を記念して開催された「沖縄空手・古武道世界大会」を見学して以来今日まで気になっていた沖縄少林寺派の和題。
その時なぜ興味を持ったのか?それは、各流派(上地・御殿手・剛柔など)ごとに開かれた講習会場を回る中で、少林寺流の型に共通点を見つけ、 思わず「うちの形によく似ている!」の言葉がでたからである。そしてさらには、流派紹介パンフレットに 「喜屋武朝徳先生の志を受け継ぐ・・・・・」の解説文が特に目を引いたのだ。
しかし、何故いまごろその話題を? それは、最近、沖縄文化の調べ物を していた時、偶然「少林寺流の形」の動画をインターネット上で見つけ、 それを見ているうちに、当時の印象に残る形とは差異があるが、リサーチの必要性を感じたからなのである。


喜屋武朝徳先生と新垣安吉

喜屋武朝徳先生と私の接点は、彼の高弟で「爪先蹴りの安吉」の異名を持った新垣安吉氏(1899年生まれ)が千歳先生と義兄弟の間柄だった事実にあります。
千歳先生は私に、安吉氏と義兄弟になったその経緯をこのように話してくれた。
「私が新垣先生の下で修行に励んでいた頃、喜屋武朝徳先生(チャンミーグワー)のところにとても強い奴がいるという噂がたっていてな・・・それが安吉だった。 安吉とは盛り場で偶然出会った。その時お互い何かを感じたのだろう・・・」
「おまえが安吉(アンキチ)か?」
「そうだ!おまえは知念小(チニンガー)だな」
「ウム・・・」

喜屋武朝徳先生と私の接点は、彼の高弟で「爪先蹴りの安吉」の異名を持った新垣安吉氏(1899年生まれ)が 千歳翁と義兄弟の間柄だった事実にあります。
千歳翁は私に、義兄弟になったその経緯をこのように話してくれた。
「私が新垣先生の下で修行に励んでいた頃、喜屋武朝徳先生(チャンミーグワー)のところにとても強い奴がいるという噂がたっていてな・・・それが安吉だった。 安吉とは盛り場で偶然出会った。その時お互い何かを感じたのだろう・・・」
「おまえが安吉(アンキチ)か?」
「そうだ!おまえは知念小(チニンガー)だな」
「ウム・・・」



喜屋武朝徳先生の生い立ち

明治3年(1870年)、喜屋武親方朝扶の三男として首里儀保村(現・那覇市首里儀保町)に生誕。あだ名は、 目が小さかったことから 「喜屋武(チャン)・ミー小(グヮー)」と呼ばれました。喜屋武家は、尚清王(在位1526年 - 1555年)の第十王子、 唐名・尚悦敬、 羽地王子朝武を元祖とする首里士族であり、その家格は殿内(トゥンチ)と呼ばれ、代々喜屋武間切(現・糸満市喜屋武地区) を 領する大名という名家でした。また、父朝扶は、琉球王国末期から明治にかけて活躍した著名な政治家であり、廃藩置県後は尚泰侯爵の 家扶を務め、また自身松村宗棍門下としても知られる唐手家でもあったのです。


武 歴

喜屋武朝徳先生(以下敬称略)は、6歳の時、まず父より唐手の手ほどきを受けたと言われます。 12歳の時、父について上京し、 二松学舎 (現・二松学舎大学)で漢学を学びました。喜屋武朝徳は東京滞在中も父とともに唐手の鍛錬に 励んでいたようです。東京には約20年滞在し、 明治35年(1902年)、32歳の時帰郷。 帰郷後、首里手の大家・松村宗棍や泊手の 大家・松茂良興作、親泊興寛らに師事。 38歳の頃、読谷村牧原に移住して、 そこで養蚕や荷馬車引きをしながら生活を維持しました。 廃藩置県以後は他の没落士族と同様、いかに名家の出であろうと困窮した生活を送らざるを得なかったのです。 しかし、移住したことで読谷村にあった尚家の牧場の管理人・ 北谷屋良(チャタンヤラ)(1816年 -? )から、 公相君
(クーサンクー・北谷屋良の公相君)の型を学ぶことができたのです。 北谷屋良は通称で、正しくは屋良親雲上といい松村宗棍の弟子の一人と言われます。
その後、明治43年(1910年)には読谷村比謝橋に居を構え沖縄県立農林学校・嘉手納警察署などで唐手を指導しました。 大正13年(1924年)、那覇の大正劇場で開催された「唐手大演武大会」に、本部朝勇らとともに参加。またこの年那覇旭が丘に設立された「唐手研究倶楽部」にも参加。このクラブには花城長茂、 本部朝基、宮城長順など当時の諸大家が参加していたのです。


晩 年
昭和5年(1930年)、「体と用、試合の心得」という論文を発表。そして 昭和12年(1937年)には、 「空手道基本型12段」決定に参画。昭和20年(1945年)石川捕虜収容所で栄養失調のため 死去、 享年74歳でした。
喜屋武朝徳は小柄で痩せた体格から想像するイメージと違って、掛け試しの武勇伝も伝わる実戦唐手家でした。
喜屋武の弟子には、長嶺将真(松林少林流開祖)、島袋善良、島袋龍夫、仲里常延(少林寺流開祖)がいます。

これは余談ですが、喜屋武先生の弟子の一人である長嶺将真先生には、私がアメリカ千唐流のドミトリチ先生の道場 (ケンタッキー州)に居た頃、 長嶺先生の空手本出版を記念する演武会の席でお会いしました。
その時は、沖縄の流派ということで非常に興味があり、 とうとうニューヨーク市で開催された演武会にまでついて行ってしまいました。 この間、長嶺先生に同行されていた平敷先生 (ハワイ大学教授)、新里先生(沖縄国際大学教授) そして西銘さん(シンシナティ道場)から、 沖縄空手の技法の真髄や隠れ武士の存在について 学ぶことができたのです。


沖縄少林寺流の解説

喜屋武朝徳先生と八つの型
1.アーナンクー(台湾の達人)
2.セーサン(松村宗棍)
3.ナイファンチ(松村宗棍)
4.ワンシユ(真栄田親雲上)
5.バッサイ(親泊興寛)
6.五十四歩(松村宗棍)
7.チントウ(松茂良興)
8.クーサンク一(屋良親雲上)
武器型・徳嶺の棍(徳嶺親雲上)

少林寺流 (流祖 仲里常延)

 喜屋武朝徳先生は、複数の首里手先達者からハつの型を授けられる。そして師の教えた通りの型をそのまま 保存継承するという 無修正趾義を尊重しておられた。すなわち、自ら身に修めたハつの型には、いささかも潤色を加えず忠実にこれを守り弟子 たちに伝承された のである。  このように、絶対に、創意工夫を加えようとしなかった恩師喜屋武朝徳先生の志しをくみ取って型の無修正主義 を尊ぶ気持ちがおこり、 全ては源流にたちかえれという理念のもとに「少林寺流」と流派の命名を行なう。  「少林寺流」というのは、 また、中国拳法の始原といわれ、さらに沖縄の「手」の発達に大きな影響を与えたと考えられる中国の 少林寺拳法に因んだ結果の命名でもある。 また現実的には、喜屋武朝徳先生の伝承された八つの型と、他の首里手(ショウリン流系)と 区別するための命名の結果が「少林寺流」 の主な理由である。

《私の目》
「千唐流」の開祖である千歳翁は、「千年の歴史」と「古代中国唐時代の武術拳法」から 流派名をつけられたが、仲里先生も中国拳法に視点をあわせているところは興味深いところです。また、修業年代は千歳翁の方が古いのですが、 喜屋武朝徳先生を共通の師として敬愛していることに親近感がわきます。なお千歳翁は、チャンミングワー先生からバッサイ、チントウ、 クウサンクーの形を習得しています。形の比較はできませんが、形の捉え方にかなりの相違が見られます。

(1)型に始まり、型に終わる
空手道の修業は文字通り「型に始まり、型に終わる」といっても過言 ではない。すなわち型は、攻防守が武的要素を中軸にして美的要素・体育的要素が含まれ「むりなく」、「むだなく」、「むらなく」 組み立てられているのである。
従って、空手道の修業とは、徹底した型の反復練習によって技をみかき、 さらに用具を使用しての補助運動に よって筋骨を鍛練して始めて攻防守が体得され、心技体一如の境地に入るのである。 それはまた、空手道の奥義といえるのである。

空手道は型武道
型は空手道の理想像である。最終的には、型の様に仕上がるのである。 むりなく、むだなく、むらのない技が、 機に臨み変に応じて勝を制するのである。

(2)型の三要素
相手を仮想し、自己鍛練を中心に、保健的に、そして系統的に連絡組合わせで編み出された型 を分解して見ると、次の三つの要素が含まれていることが容易に理解できる。
第一に「武的要素」。 第二に「体育的要素」。  第三に「美的要素」。
この三つの要素が「むりなく」、「むだなく」、「むらなく」自然の法則に従って組み合わされ、 いささかも不合理な点がないことである。修業中はこの三要素を念頭におき、いささかも迷うことなく、型を反復練習すれば、 空手道の神髄奥技に撒し、実戦の場合は臨機応変、千変万化、攻防進退、自由自在、よくその目的を達するものである。
型がきれいということは、スキがないと言うことである。スキがないということは、熟練者と言うことである。熟練者ということは、 強いと言うことである。

(3)型練習時の心構え
(a)一撃必勝であること。この技か失敗したら、次の技があるんだと言う 考え方の「けいこ」では体得できない。型を形成している個々の技は総べて相手を倒した、という気迫をこめて「けいこ」しなければらならない。
(b)技は最短距離を通る。そして、目が先、相手の挑発によって対応する技、即ち次の動作に移る時の構えは、相手の技を見てから。
(c)型のけいこは鍛練法である。
徹底した型の反復練習によって「いざ」という場合に相手の技に対応すべく適切な技が自然に出て相手の技を制するのである。

(4)空手に先手なし
専守防衛の護身術から発達した武道である。すべての型は、受けから始まる。 特に空手道の型と、その精神を集大成した「クーサンクー」の型が、如実にそれ表現している。即ち、相手の4回の挑発に対し、 4回の構えの後初めて5回目から受けの態勢に入るのである。そして、「機は時に従い変に応ずる」という武の原則に従い「降ってくる火の粉」 は払わなければならないという理念から生まれた崇高な受けの型である。

《私の目》
「空手に先手なし」、「空手は専守防衛の護身術から発達した武道」に異論はありませんが、 それは空手(当時は空手という呼び名は存在していない)の進化の過程で定義づけられたものです。元来の姿は、古代中国の仏教寺院で広く 行われ、仏教・儒教と共に発達してきたものといえます。つまり殺生戒を犯さずに人間の精神力と肉体力をぎりぎりの限界まで働かせるという 生活鍛錬の武技だったもので、空手は拳法から派生したものと考察しています。
次の、“「クウサンクー」は崇高な受けの型”ですが、 私の、月光の下、故郷を想いながら演じる「叙情形」の考え方とは大きな相違があるようです。また、熟練者の受けとは、 その受け手が攻撃手と表裏一体となっていることを述べ添えることが大切と思います。老婆心ながら。
また仲里先生は、「型」の漢字を 全般的に亘って使用していますが、私は「形」を用いています。
尚この「形(型)考察」については、'07龍手秋季29号の中で取り上げたいと思って います。



   

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