沖縄少林寺流の解説
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喜屋武朝徳先生と八つの型
1.アーナンクー(台湾の達人)
2.セーサン(松村宗棍)
3.ナイファンチ(松村宗棍)
4.ワンシユ(真栄田親雲上)
5.バッサイ(親泊興寛)
6.五十四歩(松村宗棍)
7.チントウ(松茂良興)
8.クーサンク一(屋良親雲上)
武器型・徳嶺の棍(徳嶺親雲上)
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少林寺流 (流祖 仲里常延)
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喜屋武朝徳先生は、複数の首里手先達者からハつの型を授けられる。そして師の教えた通りの型をそのまま
保存継承するという 無修正趾義を尊重しておられた。すなわち、自ら身に修めたハつの型には、いささかも潤色を加えず忠実にこれを守り弟子
たちに伝承された のである。 このように、絶対に、創意工夫を加えようとしなかった恩師喜屋武朝徳先生の志しをくみ取って型の無修正主義
を尊ぶ気持ちがおこり、 全ては源流にたちかえれという理念のもとに「少林寺流」と流派の命名を行なう。 「少林寺流」というのは、
また、中国拳法の始原といわれ、さらに沖縄の「手」の発達に大きな影響を与えたと考えられる中国の 少林寺拳法に因んだ結果の命名でもある。
また現実的には、喜屋武朝徳先生の伝承された八つの型と、他の首里手(ショウリン流系)と 区別するための命名の結果が「少林寺流」
の主な理由である。
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《私の目》
「千唐流」の開祖である千歳翁は、「千年の歴史」と「古代中国唐時代の武術拳法」から
流派名をつけられたが、仲里先生も中国拳法に視点をあわせているところは興味深いところです。また、修業年代は千歳翁の方が古いのですが、
喜屋武朝徳先生を共通の師として敬愛していることに親近感がわきます。なお千歳翁は、チャンミングワー先生からバッサイ、チントウ、
クウサンクーの形を習得しています。形の比較はできませんが、形の捉え方にかなりの相違が見られます。
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(1)型に始まり、型に終わる
空手道の修業は文字通り「型に始まり、型に終わる」といっても過言 ではない。すなわち型は、攻防守が武的要素を中軸にして美的要素・体育的要素が含まれ「むりなく」、「むだなく」、「むらなく」 組み立てられているのである。
従って、空手道の修業とは、徹底した型の反復練習によって技をみかき、 さらに用具を使用しての補助運動に よって筋骨を鍛練して始めて攻防守が体得され、心技体一如の境地に入るのである。 それはまた、空手道の奥義といえるのである。
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空手道は型武道
型は空手道の理想像である。最終的には、型の様に仕上がるのである。 むりなく、むだなく、むらのない技が、
機に臨み変に応じて勝を制するのである。
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(2)型の三要素
相手を仮想し、自己鍛練を中心に、保健的に、そして系統的に連絡組合わせで編み出された型
を分解して見ると、次の三つの要素が含まれていることが容易に理解できる。
第一に「武的要素」。 第二に「体育的要素」。
第三に「美的要素」。
この三つの要素が「むりなく」、「むだなく」、「むらなく」自然の法則に従って組み合わされ、
いささかも不合理な点がないことである。修業中はこの三要素を念頭におき、いささかも迷うことなく、型を反復練習すれば、
空手道の神髄奥技に撒し、実戦の場合は臨機応変、千変万化、攻防進退、自由自在、よくその目的を達するものである。
型がきれいということは、スキがないと言うことである。スキがないということは、熟練者と言うことである。熟練者ということは、
強いと言うことである。
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(3)型練習時の心構え
(a)一撃必勝であること。この技か失敗したら、次の技があるんだと言う
考え方の「けいこ」では体得できない。型を形成している個々の技は総べて相手を倒した、という気迫をこめて「けいこ」しなければらならない。
(b)技は最短距離を通る。そして、目が先、相手の挑発によって対応する技、即ち次の動作に移る時の構えは、相手の技を見てから。
(c)型のけいこは鍛練法である。
徹底した型の反復練習によって「いざ」という場合に相手の技に対応すべく適切な技が自然に出て相手の技を制するのである。
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(4)空手に先手なし
専守防衛の護身術から発達した武道である。すべての型は、受けから始まる。
特に空手道の型と、その精神を集大成した「クーサンクー」の型が、如実にそれ表現している。即ち、相手の4回の挑発に対し、
4回の構えの後初めて5回目から受けの態勢に入るのである。そして、「機は時に従い変に応ずる」という武の原則に従い「降ってくる火の粉」
は払わなければならないという理念から生まれた崇高な受けの型である。
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《私の目》
「空手に先手なし」、「空手は専守防衛の護身術から発達した武道」に異論はありませんが、
それは空手(当時は空手という呼び名は存在していない)の進化の過程で定義づけられたものです。元来の姿は、古代中国の仏教寺院で広く
行われ、仏教・儒教と共に発達してきたものといえます。つまり殺生戒を犯さずに人間の精神力と肉体力をぎりぎりの限界まで働かせるという
生活鍛錬の武技だったもので、空手は拳法から派生したものと考察しています。
次の、“「クウサンクー」は崇高な受けの型”ですが、
私の、月光の下、故郷を想いながら演じる「叙情形」の考え方とは大きな相違があるようです。また、熟練者の受けとは、
その受け手が攻撃手と表裏一体となっていることを述べ添えることが大切と思います。老婆心ながら。
また仲里先生は、「型」の漢字を 全般的に亘って使用していますが、私は「形」を用いています。
尚この「形(型)考察」については、'07龍手秋季29号の中で取り上げたいと思って います。
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