空手の起源は沖縄古伝手にあり
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私は長年、龍精の空手システムを構成する「首里手」、「那覇手」、「唐手(古伝手)」は、古代支那の拳法が源流と理解し稽古を続けてきた。 しかし4年前、沖縄松林流・新里勝彦先生から首里手古伝のナイハンチの指導を受けた後、千唐流の技法と背景の研究そして日本・アジアの歴史考察を重ねた結果、 支那大陸の拳法起源説に対する大きな疑問が生まれ、現在は沖縄古伝手起源説の立場をとるに至っている。その理由をこれまでの話をいくつか織り交ぜながら述べてみたい。 ❶ 湖城流(1690年代に創始された)・
天空地十二支の型名に剣術(薩摩の天眞正自源流)技法の強い影響を受けたと思われる痕跡を見つけたことで、
「龍精」を命名(1706)した名護聖人・程順則親方が遺す ちなみに、湖城流十二支の型名は『天-正真・不動・陳風・十文字、 空-雲龍・合気・正眼・動光、 |
➋ 上記に関連するが、空手技法用語に「手刀」の名称があることだ。これは、沖縄に古くからあった ➌ 薩摩島津藩進入(1609)以前の古琉球時代の公文書には、完全な仮名文字の和文が書かれていた、古琉球時代の建物は板葺きと灰色の瓦屋根、人々は能や狂言を楽しむなど、 風景も服装も生活もほとんど大和風だったこと(「誰も見たことのない琉球」沖縄学者上里隆史著)、そして古琉球以前から、和文学が入っていて、「琉球往来」には、連歌会、 「当世連歌ノ式目」「古今・万葉・伊勢物語・新古今集・千載集」が読まれ、蹴鞠が打ち興ぜられ、その伝授に京より公家衆「飛鳥井殿一族」の下向もあったと記されている資料が残る。 ➍ 上記3を肯定する事実の一つが沖縄音楽である。沖縄音楽は支那大陸の音楽を起源と する説があるが、これは間違いである。それは音階の違いだ。沖縄音楽の音階「ドミファ ソシド」に対し支那音楽の音階は「ドレミソラド」である。興味深いことは、東南アジア のガムラン音楽の音階が「ドミファソシド」で沖縄音楽の音階と同じということだ。八重 山民謡の安里屋ユンタとジャワ島の音楽を聴き比べるのも面白い。 民俗音楽は民族の感受性が色濃く沁みこみ、どんな政治権力が介入しても絶対に変えることができないとされている。沖縄の方言には大和言葉があり、沖縄の民は日本人としての感受性を持つ。 |
➎ 唐手五代新垣世璋翁と同時代に生きた首里手大家・安里安恒(1828-1914)は、大正3 年(1904)1月17日に発表した「沖縄の武技」の中で、「沖縄固有の武芸にして田舎の舞 方(メーカタ)なるものが、 |
➏ 沖縄手は、首理手をナイハンチそして那覇手をサンチンと明確に定め、ガマク・チンクチ・ムチミ等の身体操作を表す用語を使って自己武術の特徴を明示する。 そして古伝手の系統にある龍精空手は、腰(下丹田)及び胸部(上丹田)で生まれる勁(力)を腹部(中丹田)に集めて放出する身体操作及び力の伝搬回路である「丹田回路」の技法原理を明記する。 私は冒頭に述べたとおり支那の拳法を源流として捉え、導引法、羅漢拳他幾つかの拳法 を習い、さらに技法内容の質を高めることを目的にカイロプラクティック、東洋医学、チベット密教等、角度を変えた視点から支那拳法の技法や思想についても研究を重ねた。 しかし、どこからか単にコピーしてきたとしか思えない、抽象的な技法や用語の羅列や言い回し、そして最終的には耳触りの良い「気・・、太極・・」という虚ろなオブラートで包んだ思想というものに 引きこまれて翻弄され、結局、沖縄の古伝手が解き明かす丹田回路に優る確固たる技法の原理を支那の拳法から見つけ出すことができなかった。 又、私はカイロプラクティックの施術の経験から、「気」は、心臓から全身に送りだされる血液の流れが発生する生命エネルギーと理解している。そのことから、健康法・養生法と言いながらも、 自分たちの技法思想の看板である「気」とか「呼吸法」の言葉を使い、身体に触れず相手を吹っ飛ばす?とかの戯言を、まるで最上の技法とでも言いたげに放言し、そして虚勢を示す拳法家/武道家気取りの輩に 腹立たしい嫌悪感を持つ。 彼等は、日本刀と対峙した時そんな戯言が全く通用しないことを知るべきである。 ここで、天眞正自源流・上野景範先生の手記「琉球のサムライ」より、唐手第二代継承者 松村宗棍 |
『 宗棍は、武士としての武術を極めるために、手(ティー)を師から学ぶのみではなく、薩摩藩の剣術に対して強い興味を持った。 これも禁武政策の中に於いて敵を知る為の手段であったと考えられる。 宗棍は、まず薩摩藩琉球駐在高等弁務官であった渋谷三左衛門貫通を尋ね、その信認を 得て、徹底的に「立木打」をはじめとする東郷示現流刀法を修行した。そして、鹿児島に ある琉球役人の滞在場所である琉球館へ派遣された時には、古自源流の伊集院矢七郎の道 場で修行を重ね、その後島津藩陰流の天眞正自源流兵法宗家、溝口源信齋の下で修業、後 に宗家直門の印可免許(西暦1829年/文政12年)を得ている。 宗棍を介在して、沖縄空手と自源流は、互いに少なからず影響を与えているのではないか と考えられる。沖縄空手の特徴として道場の片隅や家々の軒下に、人間の肩の高さほどで 先を細くした板に藁をまいた巻藁といわれるものがある。空手はこれを毎日突くことによって、自分の拳頭などを鍛えるものである。支那拳法の影響を多大にうけた空手だが、 この巻藁のようなものは拳法の本場中国で見聞きすることはない。 沖縄の古老曰く「ズーツと昔は、平らな周辺の真ん中に巻藁をおいて、前後左右から飛び
こみながらそれを突いていた」という証言があるが、それは、自源流の立木打ちの応用で
あろうか? 琉球王朝の高官として薩摩へ二度派遣された宗棍だが、清国にも同じく二度ほど渡って いる。南部の閩(現在の福建省)のみならず、国府の北京へも赴いている。
そして、江戸幕府 の講武所ともいえる北京の善撲営で、宗棍は自源流刀法の威力を発揮する機会に出会った。 支那拳法の八卦掌の門派に伝えられている「系譜雑記」には次のようにある。 |
❼ 中国4,000年の歴史という嘘。 これらの事から私は、仏門の僧侶達が修行の過程で考案した導引法の堅持に揺らぎはないが、現在の太極拳を始めとする中国拳法というものに、武の道を教授し、 理を論じるに適う武術と言えるのか?と、 大きな疑念と疑問を抱くようになっている。 以上が、稽古の中で感覚化出来た術技そしてそこから考察した術理と歴史観を通して 「沖縄古伝手起源説」を唱えるに至った論である。 (上に戻る) |