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護身力

ヌンチャクと私

ヌンチャクを護身用の隠し武器として身近に置いてかれこれ48年になる。 ヌンチャクとの付き合いは、剛柔流猛者の松下さんから初めて空手の指導を受けたのが始まりだ。その当時(1964年頃)私の周りでは、 二本の短木を紐で結んだ変な物・
ヌンチャクはほとんど知られておらず、”それ何ですか?“と聞かれた時は、”太鼓の撥(ばち)とか火之用心の拍子木(ひょうしぎ)でーす! “と笑いながら答えていたぐらいだ。
滑稽な話といえば、空手の基本もろくにできないのにヌンチャクを振り回して身体のあちこちを打っては悲鳴を上げ、得意になって上段回し打ちをしているうちに取り損なって おでこを直撃、もんどり打って倒れそのまま気絶したことが何回もあった。
恥ずかしながらそれは今も変わらずで、歯を食いしばることが時々ある。打たれた時の痛みを知ることが必要と自分に言い聞かせながらも、その激痛は情け容赦な く体を襲い、ひたすら「忍」の一字で耐えるしかない。
痛いといえばトンファーも半端ではない。ヌンチャクとは違い、打ち当たると同時に切られるような痛みが加わる。 それこそ“グー…ムムムムー…!!“と悶絶一歩手前という、笑われても仕方がない姿になる。


ヌンチャク操作を習っていた時に教えられた忘れられない言葉がある。
「もし武器を持った相手と戦うようになった場合、自分もそれ相応の獲物を持って応戦しろ。空手を習っていると言って調子付いて素手で戦おうなんて スケベ根性を持ったら絶対駄目だ。 負けてしまうよ。 いいな!」
これは後に「空手と武器は両輪」、「武器は手の延長にあるもの」等、私の武器操作のベースになる考えになり、合わせて護身としてのヌンチャクの存在をしっかりと 意識することになった。


ヌンチャクと変手法
巻き手、掛け手、打ち手、十字手を伴って変化する古流独特の手いわゆる螺旋手を変手法に組み込めたことで、龍精独自の剛法・柔法の変手技法をカタチにすることができた。 今後は習熟を目指す段階へ進んでいくわけであるが、ここにきてヌンチャクを同時並行して稽古したら面白いのでは?と考えた。
そのきっかけを作ったのは、自分の手をもう一方の手で打って強い弾きを作り出す“打ち手(右下写真)”が、ヌンチャクの
“叩き打ち”との重なりに気がついたこと、 そして、荒みが進む現在の社会状況を見た時、そこに戦える護身用具としてのヌンチャクをもっと活用すべきではないかと強く思ったことだ。

ヌンチャクは、映画「燃えよドラゴン」ブルース・リーの影響もあって、現在は一般的に振り回す道具として知られ、各流会派の演武披露では振り回しが主で、中には新体操方式が加わりとても派手な立ち回りのようになっている。
しかし、ヌンチャクはあくまで護身を強く意識した隠れ小武器なので、常に手元にあって揺らぎ、相対する武器との間合いを見ることが大切になる。
また、構えに多少の違いはでるが無手の動きと左程変わりはなく、左右前後への打ち出し及び手離れは鋭く短くそして素早く手元に戻し、次の動きに備えることが操作の基本となる。

私は内弟子の頃、千歳先生の二丁短刀(ナイフ)の演武を一度だけ見たことがある。今でもその美しい動きが脳裏に残り、いつの日か挑戦することを自分自身への 課題としている。
しかしながら、二丁短刀の動きは螺旋手が成せる技と知った今、螺旋手を本にしたヌンチャクと二丁短刀(ナイフ)の操法及び技法の結び合わせに一歩踏み込むことができた。
その結果、課題実現への距離が縮まったように感じている。左の写真は、打ち手の原理をヌンチャクに乗せた下段への叩き打ちで、他に擦り打ちや交叉打ち等がある。

稽古を続けていると大なり小なりの必ず疑問がでてくる。そこでその答を見つけ出そうと いろいろ思案するうちに新しい考えやアイデアが浮かび、結果的に技法の小さな変革が起こる。 そしていつの間にかに次のステージへ向かって進んでいることがある。
言わばこれが考える空手、工夫する空手なのだ。 今回のヌンチャク考はその一つである。
螺旋手を得たヌンチャクはこれまでとは一味違う操法へと進化する。 練度が上がるに従いより強い護身力と抑止力を備えた護身用具となり、 さらに変手法はもちろん他の武器技法にも大きな波及効果が期待できると確信する。   (平成24年9月5日/Sep. 5th, 2012)



ヌンチャクと拍子木

「ヌンチャクと護身力」の掲載が終わり、次のレポート用の資料集めをしていたところ、チャンネル桜に関連するサイト上で気になる記事を見つけた。 それは東京都荒川区議会議員・小坂英二氏のブログにあった「いじめ問題について」の記述だ。内容を抜粋する。

 いじめ問題を根本的に解決するためには、いじめに対して被害者自身が「自らの身を戦ってでも守る」行動を取れるようにするための啓発、教育が必要だ。

滋賀県大津市のいじめによる自殺のケースのように、いじめ被害を学校や父兄に相談しても、話合いばかりで解決せず、いじめ加害者の口先だけの謝罪を以っていじめは解決した ものとして扱うことが多い。そしてその後、学校側もいじめ対応を十分した、として被害者の状況を注視せず、いじめ加害者を一層増長させ、被害者が自殺や精神破壊に追いやら れる例が後を絶たない。

教師も父兄も二十四時間子供を見守れる訳ではない現状、自らの命を守るためには反撃し戦い撃退する覚悟を持てるような教育が必要である。 道徳を軽視し軽薄な偽善と本質から目を逸らす風潮が戦後の日本を蝕んできた。現在の日本も周囲のゴロツキ国家から、誇りも歴史も領土も侵害される形で一方的な いじめを受けている。

それに対してなんら有効な反撃もせず、先人や子孫に対して犯罪的な媚を売り国益を切り売りする、他力本願、あるいは一時しのぎで一層ゴロツキ国家のいじめやタカリを 助長してきたことはいじめ問題と同じ構図である。
日本をあらゆる意味で骨抜きにする為の日本国憲法、特に自らを守ることを否定する倒錯したカルトと言える憲法九条が振りまく妄想が諸悪の根源と言える。

こうした風潮に毅然として対処することも行政の使命だ。そのうえで正面から子供が自らをいじめから守る反撃を認め、
その覚悟と勇気を持つ精神涵養を進めるべきだ。 』


私は、小学校では野球部、中学校では柔道部に所属していたこともあり“いじめ”という言葉には全く無縁で過ごした。 そして成人後、空手を通じ海外の空手家と交流を始めてからは、日本人として彼等には絶対負けないという強い気持ちと闘争心を常に持ち、指導者の立場になった今、 少しは丸くなったが戦う気持ちは以前の姿勢と変わりはない。

その意味で、私は小坂氏が犯罪でもある<いじめ>を真正面に置き、<いじめ>を敵あるいは敵国として捉え、“戦う気持ちを持て!”、“強い日本人であれ!”等等の示唆を議員の立場から堂々と世論へ訴えていることに感銘を受けた。
その理由は、前回の「護身力_ヌンチャクと私」のレポートの背景に、国家の危機そして教育の荒廃など歪んだ現代社会の現実を正面から直視して有事に備えるべきとの訴えを入れていたからだ。 では前回のレポートを下敷きに、不当な脅迫や暴力に対する大きな抑止力と護身力を持つヌンチャクの存在感を別角度から追ってみることにする。


   

拍子木
写真は拍子木、太鼓の枹(バチ)そしてヌンチャクだ。類似した形状が見て取れると思う。 バチ及びヌンチャクの解説は特に要らないと思うので拍子木だけに着目し概説する。

拍子木

太鼓のバチ

練習用ヌンチャク


 拍子木(ひょうしぎ)とは、「拍子」を取るための木の音具で、 紫檀(したん=マメ科)、黒檀(こくたん=カキノキ科)、
花梨(カリン=マメ科)、樫など堅い木材を細長い四角の棒状に切って使用するもので。日本では古来様々な用途に用いられてきた。

楽器として … 雅楽、祭りのお囃子等のほか、現代音楽でも打楽器として用いられる。
撲で … 大相撲の呼出しが使う拍子木は、桜の木が使われる。
舞台で … 人形劇や歌舞伎では、開幕、幕切れ、役者の登場などに拍子木が重要な役割を持つ。
紙芝居で…昭和初期から30年代にかけて下町で人気のあった紙芝居屋さんの大切な道具。
祭礼/伝統行事 … 神輿や山車の運行に、拍子木の音で合図をする。拍子木を使う進行役自身が「拍子木」と呼ばれることもある。
宗教行事 … 宗派によっては、読経の折などに拍子木で拍子をとることがある。 』

さて上の用途で拍子木が持つ大きな役割の一つが抜けていることに気付くであろうか? それはこれである。
・夜回り、夜警 … 警防団や消防団などが夜、見回る時に、「 戸締り用心、火の用心 」と声をあげながら、 拍子木をカチカチッと打ち鳴らして歩く。 (ウィキメディアより引用)


私が中学生まで育った町では、消防団(警防団を兼ねた)の人達による夜回りが定期的に実施されていた。黒光りした錫杖を”ジャラーンジャラーン” そして拍子木をカチカチッと突き打ち鳴らし“戸締り用心、火の用心”と声をあげながら町内を見回る。寒い冬の季節には子供会も当番を受け持っていた。

どてら(褞袍)に襟巻き長靴姿で白い息を吐きながら大人の人が突くジャラーン・ポーの錫杖の後を私達子供会のメンバー数名が拍子木をたたきながら夜の町内を見回り歩く。 初めの頃は怖さと緊張そして恥ずかしさが入り混じり“火の用心…マッチ一本火事の元…戸締り用心・火の用心”はモジモジ小声で拍子木も上手に打てず、大人の人から “もっとしっかりやれー!”と怒られた。 しかし何回かやるうちに何となくかっこがつき、拍子木の音そして火の用心の声が大きくだせるようになり、なんといっても“俺も町内の一員なんだ!”、 “俺は今、町内のみんなを守っているんだ…かっこいいじゃん!”とガキながら小さな自信を持つ気分になれたのがとてもうれしかった。

錫 杖


拍子木は通常両肩に掛け、結び紐側を持って打つ(山車や神輿の祭り/下写真)。拍子あるいは音頭をとり楽しみや注意を知らせる道具に徹し、 何かしらほのぼのとした純和風な和やいだ気分そして雰囲気を周囲へ投げかけることができる。
だがしかし(バッテン)、紐の長さ(節)短くして持ち方を180度ひっくり返すと様相が一変する。護身いわゆる戦いのモードを持つヌンチャクの小さな武器へと変身するのだ。 太鼓のバチによっては、いざ戦闘になるとカリスティック・オリシ(二本の短棒=エスクリマ武術)のスタイルになるのと同様である。

祭りと拍子木

紐の節はヌンチャクの柔軟性とスピードを生む

そこから見えることは、空手など徒手空拳術が有する簡易な(木製)武器は、生活の中に溶け込んだ単なる道具の一つに過ぎないが、 危険がせまりいよいよ争いが避けられないとなると護身のための武器の顔へ一気にトランスフォーム(変身)することだ。


私は近くの龍田山(標高152mの小山)を稽古場所にしているが、山に入る時は必ず練習用ヌンチャクを携行する。 真っ暗な山道を、ヌンチャクをカチカチと叩きそして振り回し、時折“火の用心、防災用心、ワー…、ヤー…”と叫び、御経や空手吟を唸りながら歩く。 何のことはない、暗さと一人だけの怖さを何とかしたいだけの話なのだが…。

また、私は旅など外出する時は護身用の短ヌンチャクを「御守り」代わりに持つ。 21歳の時(自衛官時代)の与太話がある。それは北海道千歳の飲み屋街でヌンチャクを手にナイフとのストリートファイト一歩手前を経験したことだ。 構えての睨み合いと威圧する掛け声だけで格闘まではいかなかった。 今だから言えることだが、もし手元からヌンチャクが飛び出していたら大変なことになっていたと思う。

「打ち方によっては骨を砕いてしまうほどの破壊力を持つヌンチャクは、あくまで護身を強く意識した隠し武器。 基本は、常に手元にあって揺らぎ、相対する武器との間合い(距離)を見る。無手における構えと多少の違いはあるが動き全体に左程変わりはない。左右前後への打ち出し及び手離れは鋭く短くそして素早く手元に戻し次の動きに備える。」

短ヌンチャクは節紐が長く樫棒の長さは約25p


共に文化を持つ

私が空手を通じて交流する海外の友人達は、自分の身は自分で護る事は常識であり当然と考える。 そして彼等は、空手が競技スポーツを超えた武道文化のレベルに在ると確信する。なぜならば、沖縄を発祥(支那大陸ではない!!)とする空手は護身術に長け、 日本武士道の崇高な精神文化が存在していると信じるからである。

然らば、空手の隠し武器ヌンチャクと同列として語ってきた拍子木の文化とはどのようなものであろうか? 私は、古い時代から様々な場所でいろいろな用途に使われてきた拍子木は、 伝統そして庶民文化を守る大切な道具の一つとして大きな存在価値を保持していると考える。

「隣町の子供会グループが商店街のお祭りパレードで、拍子木を打ちながら大きな声で“火の用心…、戸締り用心…、防災用心…、いじめに用心…、etc.”と叫び、その進行の中で拍子木の持ち手を変え、空手のヌンチャクのような動きを披露したそうだ。 あそこの町内の子供達の礼儀態度はとても素晴らしいからね。こっちも元気がでるよ。ところで…聞いた話だが、みんな鈴のついた拍子木を御守りにしているそうだ……」 私はこんな声が聞けたらいいなと思っている。

空手は一般的に何の武器を持たない素手(徒手空拳)の武術と思われがちだがそうではない。六尺棒(棍)から始まり必要となれば近代戦の主要武器であるナイフ、 ライフル、機関銃等を扱うこともできる。それは武器という全ては手の延長上にあるモノと理解するからだ。
そして合わせて知ってもらいたいことは、空手にはもう一つの顔である舞踊の世界が存在することである。これは世界各地に残る古典舞踊の裏には必ず古伝の武術が伝承されている 事実が証拠と言える。尚このことについては、以前にも言った「舞踊と唐手」のエッセイで述べていきたいと思っている。

庶民文化の拍子木と武術のヌンチャクを重ね合わせ、第三者には明確とは言えない護身のイメージを出没させながらいろいろと述べてきたが、私の提案は次である。


得物を相棒にしろ
素手の戦いに自信があるか無いか、あるいは強いか弱いかにかかわらず、何か一つ自分が頼りになる得物(戦いのための得意な武器。ただしナイフや銃火器類は除く)を持つ。 それを相棒にする。相棒にしたらとにかくその得物を大事にする。防犯ブザー…?目潰しスプレー?必要と思ったならば持とう。
多数の目のあるいはルール下でのファイティング競技と誰も見ていない暗がりや路地裏等での戦い(ストリートファイト)は全く別次元の戦いである。そこでの護身力とは、 戦うという強く絶対に負けない気持ちを持つことそして信頼する相棒がそばにいることだ。

私は空手という身を護りそして戦いのための術を修得しさらに術技を高めるため日々稽古を続けている。 普段の生活を送る中で、偶発的なことから争いに巻き込まれる可能性はゼロではない。その時、戦いへの自制ができればよいが、 できなければ多分ただでは済まされない状況になることを自分自身がよく理解している。だから私は、そうならないためにヌンチャクを携行する。その大きな理由は、 素手の技法とは違い、相手の骨を打ち砕くヌンチャクの術技は、自己の戦う気持ちを自制そして抑制しながら相手(相手側)の戦意を喪失させる力を持っているからだ。

“カチカチッ…防災用心・火の用心…カチカチッ”
“カチカチッ…いじめに用心・火の用心…カチカチッ…いじめに負けるな・火の用心… カチカチッ…”

(平成24年10月7日)



   

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