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続_中国拳法の幻想を斬る

沖縄松林流 新里勝彦先生のナイハンチ技法と理論の勉強を続けてから約4年余りの年月が過ぎたが、最近になってようやく一つの成果をだすことができた。 それは龍精のシステムを構成する「唐手」「首里手」「那覇手」それぞれの特徴を、中国大陸の拳法とは全く異なる独自の技術体系を持った武術「古伝手」として 解説できるようになったことだ。
そしてその成果は、折しもインターネットを通して学習している特定アジア近現代史と重なり絡みあい、 空手(以下手・ティーとも呼称する)の新たな思想概念を導き出すに至った。

唐とアイデンティテー
特定アジア(特亜)とは中国共産党と南北朝鮮の国々をさす。現在多くの日本国民は、その三カ国が、日本を敵国と定め、日本を貶めるための嘘の歴史を捏造し、 悪意に満ちた様々な挑発や謀略工作活動を進行させている事実を目の当りにし、そして、共産党の一部権力者の私利私欲のための政治の無策が大きな原因とされる環境汚染に よって、排出あるいは発生する毒に塗れたドス黒い波(汚染物質/大気・土壌・水から食品に至るまで)が周辺のアジア諸国そして日本列島へ押し寄せている現実に直面している。

私は、特亜のそうした歴史の嘘と捏造、病的な政治や謀略工作そして環境汚染の現実を前に、冒頭で述べた通り、心の底から言い知れない怒りが渦巻く状態に在る。 ましてや、まえがきで長く述べたように、これまで「唐=中国四千年の歴史&優れた文化」の考えを持ち続け、「唐」は、「唐手・千唐流」の「唐」で、 自分の空手のアイデンティテー(自己同一性〕)を表す大切な漢字と位置付けてきたので尚更なのである。 異民族の支配と殺戮が繰り返されてきた連続性のない歴史、王朝が変わる毎にその時代に信仰された宗教そして栄えた文化は人々と共に抹殺された易性革命の歴史、 現中国共産党は清王朝とは全く無縁で国の歴史は70年に満たない、等などの真実を知った今、中国そして中国四千年の歴史に抱いた幻想や憧れの想いは吹き飛び消え去った。 私はこの現実を先ず気分から打破するために、唐の解釈を「古代、伝統、インド文化圏、仏教信仰を推進した隋&唐王朝」に改め、“中国&幻想”の虚構に塗れた色を脳裏から 消し去りながら、視線を東南アジア・インドの文化圏に向けて行くことを決意した。



手は中国拳法とは異なる武術
前項と同様に私は「唐=中国拳法、空手の起源」との考えを盲信し、空手の技に疑問点がでた時は、理解云々は後にして先ず中国拳法の中の複数を選択しそこに答を求めていた。 だが、ナイハンチの技法をセイサン・ニーセイシそしてサンチンに入れ込んで稽古を続けるようになってからはその行動が止まった。 そして、波のように伝わる力の伝搬とその変化を、身体の各部に感じ取れるようになったころからは自己解決の門が開き、今度は逆に、禅の思想と共に発達したと考え 実践している導引法を除く、中国拳法と呼ばれる武術への疑問が噴出し始めた。それは「気」を根本原理(思想)に据える中国拳法の技質の愛昧さと矛盾に対するものだ。 例を挙げれば、太極拳の“気で相手を飛ばす”という超技?を解説する「気と勁」「柔法と呼吸法」などの客観的抽象論、あるいは“気で相手をコントロールしそして 吹っ飛ばす”という拳法スーパー技術論等である。

私は、同じ練習場で稽古する太極拳(&武術太極拳)グループや個人練習の人と武術の話をする機会を何回か持った。皆の話題は姿形(すがたやかたち)が中心で、 技術的な話は苦手のようであった。でもそれを承知で、
「その動き実際に使えます?」と質問すると「さあー、健康のためですから……」。
「拳法はよく発勁と言いますが、どのように力をだして、どの部位で打つのですか?」の質問には
「気の力で、コブシや手の平で…、空手も同じでしょ…」といった具合で、 話がうまく噛みあわない。
それである時私が、「日本のラジオ体操の方がいいでしょう…」と言ったら、「……」と無言、で、
それっきり対話は無くなってしまった。 話をもとに戻そう。

スプリングの作用、鳥の羽ばたきと波動、風船と腹圧など、自分が考える原理を基に身体操作を工夫して稽古を重ね、身体の反応が以前より増してきたと思ったある日、 イメージとして描いていた下丹田の三腰と膝、上丹田の胸の開閉と肩甲骨、中丹田の呼吸による腹圧と肘、それらの要所を結ぶ線の中に“バチッ” とした力が通過する流れを感じた。抽象的な感覚表現だが、その瞬間私は“あっ、これが…そうなのだ。”と、手の力の発生原理を掴んだことを静かに覚った。 だがその覚りはそれだけに止まらず連鎖を起こしたのである。私はその時を境に、
手は、中国拳法とは歴史的にも技質的にも全く異なる武術であることを確証した。
そして、手とは、中央アジア−南アジア−東南アジア−日本、いわゆる弧のライン上の文化交流を通じて育まれ琉球沖縄の地で開花した武術。
さらに、手とは、弧のライン上の各地域に生まれた“祈りや信仰”の下に創作された古典舞踊と言われる芸術性をも融合した武術。
と、新しい手の思想概念を導き出すに至り、その時には中国拳法への妄信は飛散していた。


真剣刀法と古伝の手
七代の系譜を持つ湖城流十二支の型の名称が、天眞正自源流の技法名に類似することは以前に紹介したが、そこから一歩前に踏み出し中国拳法の幻想を斬ったのが次の話である。 私の打ちの技法は、腰(下丹田)や胸(上丹田)の身体操作機能が作用しだしてから、打ち当てるに切り+刺し込みの要素が加わって、強く激しく打ち切る打法へと変化している。 変手法の、受け手と攻撃手が重なった打法はそのよい例である。
その打法に至ったきっかけには、29代の系譜を持つ自源流の真剣刀法との巡り合い(平成20年靖国神社奉納演武大会)が大きな背景として存在する。
唐手と150年ぶりに再び出会った天眞正自源流兵法は、我々に、現代の空手の技量では真剣刀法には全く太刀打ちできないことを気付かせそして暗に技法の改革を促してくれた。 私は大会後、瞬時に手首を斬り落とす刀法に対峙する技法とは何かを真剣に考えた。そして「“斬るには切る”で応じる技と思想原理を持たなければ我々の空手に先は無い」 との結論を出し、技法全般の改革に向け懸命に取り組んだ。ナイハンチしめ腰からの前屈立ちでの入り身、中丹田線上での肘の保持と腰との連動、棍の伸縮技法、 手刀・貫手部位の鍛錬などは、その過程で気付かされ再考を迫られた技法で、特筆すべきは、手前味噌ではあるが、龍精に遺された古流形の存在意義を覚ったことだ。
古流の螺旋手を稽古していくと自然に切り込みの技法が当たり前の技となる。そして開手技の動きが自源流刀法に重なる感じをつかんだ時は、新鮮な驚きと共に不思議な感覚に 包みこまれる。これは個人的な感情だが、そのような状態に入った時は、古流・古伝の手を伝承してくれた先達に感謝し、失伝したとされる湖城流に思いを馳せそして 日本武道の極致である日本刀の文化が沖縄の古伝の手にも入っているのだ!という嬉しさを身体全体で感じて安堵に浸り、一人感激しながらこの生きた話を 思い浮かべるのである。

松村宗棍  
琉球王国の高官として薩摩へ二度派遣された宗棍だが、清朝(清国)にも同じく二度ほど渡っている。南部の福建省のみならず、国府の北京へも赴いている。 そして、この北京における江戸幕府の講武所ともいえる善撲営で、宗棍は自源流刀法の威力を発揮する機会に出会った。八卦掌(拳法)の門派に伝えられている 「系譜雑記」には次のようにある。
『かつて、北京にやってきた琉球人の中にチゲンルという日本剣術を使うソーコンという者がおり、誰一人として及ぶ者はいなかった。日本剣術は、静止して動かず、 一瞬電光の間に勝負を決する恐ろしい刀法であった。その技量に達するためには、我国の武術家より十倍以上の厳しい稽古をつまねばならないであろう。 だから名人の数は極めて少ないと伝え聞かされている。』 「琉球のサムライ(天眞正自源流上野景範)より」(上に戻る)


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