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子狸とフクロウ

先月から子狸一匹が練習の見学をするようになった。はじめは遠巻きに私の様子を探っていたが、「チビたぬ」あるいは「ポンたぬ」と呼んでいるうちに少しずつ近づくようになり、 今はドッグフードを少しおいてから帰るようにしている。
先週、柿の木(写真)に向かって打ち込み練習をしていた時にフクロウが飛んできた。時々「ホー ホー」と鳴いている彼だと思うのだが、 その時は奇声を発していたので「何じゃ!」と駆けつけてきたのかも知れない。別に縄張りを荒らしているわけではないのだが・・・ 夏の夜のハプニング。(2005/8/6)



和のエレメント

練習場を取り巻く自然環境が、桜からつつじの花へそして新緑へと移り変わる。その変化の早さには驚かされる。 美しい花々をなぜそんなに急いで散らしてしまうのか?もっとゆっくり咲きとどまって、私達にその美しさをじっくりと見せてくれればいいのに・・・、 と思うのだが、彼らも次のステージ(舞台)に上ってくる他の花たちへの配慮があるのだろう・・・。
それが植物同士の“和”なのかも知れない。
3月の春季技術講習会に、オーストラリアからBrian Hayes師範が参加。 彼とは10数年前に何度か交流をしただけで深い面識はなかった。 私はそこでその底流には何があるのかを考えてみた?・・・ 見つけた! そこには千歳翁が残してくれた千唐流があった。 私はたびたび千歳翁から、「空手は空気や水のような存在だよ」と聞かされていたので、 “ソーか・・・そういうことか“と直感したのである。 千唐流が和のエレメント(要素)か・・・、と。 地球上の動物そして植物は、水と空気そして大気のエレメントがなければ存在することはできない。 そしてさらに植物の光合成を司る光、風、土も 絶対不可欠なエレメント。抽象的な言いまわしだけれど、 普段何気なく接している自然の中の稽古場の見方がだいぶ変わってきたことは確かである。
(2005/5月5日 端午の節句)



木の枝の変身

市販されている棍(六尺棒)は、商品として加工されているので手の馴染みが早く、“俺の棒っ子” としての愛着もすぐに芽生える。 とはいえ、稽古の度に山へ持っていくことができないので、 自然の成り行きとして代用品となるの木の枝を現地調達することになる。しかしこれが意外と難しい。 生木を切り倒すことは山のご法度なので、必然的に枯れ木を探すことになる。ところが適当な太さで2メールの真っ直ぐな枝となると なかなか見つけることができない。 またたとえ見つけられたとしても、手に馴染むまでには時間がかかる。もっと最悪なのは不心得者に 持っていかれてしまうことだ。 これまで3本持ち逃げされてしまった。 そのうちの1本は、小刀できれいに表面を削りそして仕上げをした 棒だったので、今でも“孤の野郎”と思っている。しかし半面、どこかで役立ってていると思えばあきらめもつくというもの。 現在は、木刀代わりを1本、棒代わりを2本、秘密の場所?に分散して置いている。「大地に深く根を下ろし、 地球の鼓動を感じそして我々の生活環境を守り続ける仕事が終わったら、 その一部分を“俺の棒っ子”へと変身させてください」。 山の神、森の木々に敬意を払いつつ・・・私からの一つの願い。
(2005Jan. 如月)

 

不思議な祠

今年は台風の到来が多く、特に18号は大きな被害の爪痕を各地に残した。 龍田山も、風速48mの猛烈な風による倒木が森全体に広がり、狭い山道はまったく通行できない有様になった。 その中で不思議な光景を目にした。そこは山の中腹、豊国公園(豊国廟跡)北側斜面に小さく窪んだところにある祠だ。 いつ、誰が建てたかわからない小さなお稲荷様。
その祠は、周囲の大木が押し倒されそして崖が崩れているのに、後の崖そして手前約4メートルの範囲はまったく荒れていないのである。 あの強風ならアッというまに吹き飛ばされても当然なのに、何事もなかったかのように以前と同じ状態で鎮座している。 「これはいったいどういうことなのか?」 、時々山で会う老人に聞いたところ、「以前の台風の時もそうじゃった。 何かおるんでしょうな……… 不思議なことですよ・・・・・」。 山の神に感謝しながらkこれからもも山歩きを楽しみ、稽古に励み、そして自然との触れ合いを大切にしていきたいと あらためて感じた出来事であった。
(2004Oct.神無月)

 


 

四方山部屋