古流唐手トップ・Top

古流唐手ホーム・Home

レポート・Report



2016 熊本大地震


4月14日午後9時26分突然“グワーん”と身体が大きく縦と横に振られ椅子から飛ばされそうになった。 直後“ガシャガシャーン…”の音と共にいろいろな物が落下していきた。何れはくるだろうとの不安と心配が、“とうとう来たな……”の現実になった。
だがこの時、空前絶後の第二強力弾に襲われるとは考えもしなかった。


昭和43年当時、私は北海道北千歳駐屯地の第一特科団の野戦砲レーダー小隊に所属していた。
5月16日、 その日は朝から少工校の先輩方とレーダー整備のため格納庫に入っていた。10時の休憩が近くなった頃、 “ドドドド――”と地鳴りがし、次に“バタバタバタ……”地面を叩く様な音が身体に伝わってきた。

私は最初“今日の戦車(第7戦車大隊)の訓練は何……?と、 一緒に渡道(北海道勤務)した戦車の同期(生田目君)の顔を思い浮かべながらレーダー整備を行っていた。ところが直後(午前9時48分)に、 突然身体が横に“ぐら――”と傾いた途端、建物全体が大きく揺れ始めたのだ。私達は慌てて屋外に飛び出した。 だが地面も大きく波を打つように揺れているので地面に伏せるような姿勢を取り、揺れが収まるのを待った。

揺れは2分以上続いたと思うこの間、大きな波に揺られる小舟に乗っているような感覚を味わい、それは揺れが収まってからもしばらくの間残っていた。 幸い怪我あるいは機材などの損傷が無く良かったが、マグニチュード7.9の地震の凄さを、身を持って経験させられた。
なおこの時は、震源が深かったので余震の大きな揺れは1回だけしか記憶に残っていない。

又これは、地震が収まった後の話。その時たまたま格納庫横の電柱に登って電線の保守点検をしていた 営繕班の係員がいたのだ。
“助けてくれ――”との声に私達は上を見上げた。するとそこで目にしたのは大きく左右に揺れる電柱にしがみついている人だ。 私達は彼に向って“しっかりつかまれ―……、落ちるなよ―○※▼※◆……”と必死に叫び続けた・・・・・・。

揺れが収まり彼はホッとした様子で下りてきて“マスト(帆柱)だったよ……、”と、身振り手振りを交えながら私達に話しかけてきた。

 

私達はお互いの無事を確認し合いながら、それぞれがこれまで経験した地震や津波の話を交わし、 自然の脅威を享受しあった。
私はその時、全く地震とは関係ない「マスト」の言葉が脳裏に残った。 何故ならば、私は海軍出身の父と叔父の影響から海の少年自衛隊(呉の術科学校)を希望したが、 それが適わず第二希望の(陸上)少年工科学校に回された経過が有るからで、その時ふと海軍と海軍堀内部隊(落下傘部隊)を思い出し、 “アーあ、俺は陸軍なんだよなー”と、何かしら感傷的になったことを覚えている。
蛇足になるが、 その年から3年に亘って落下傘部隊(戦闘集団)への転属を希望したが願いは叶わなかった。


さて翌日の15日、朝から落下した品物の後片付けに追われたが、 この時は電気・水道・ガスのライフラインが止まることはなく食器などの損傷もほとんどなかった。
家族や知人の人達とも“結構揺れましたねー……”、 “でも被害が無くて良かった……”の会話だけだった。
ただ各学校は休校となり、阿蘇から熊本市内にかけての建物や橋梁のいくつかにヒビ割れや倒壊が確認されている、

 
どの家庭もこのようなありさま

というニュース速報が繰り返し流されていた。
夕食・風呂を済ませ、“大きな余震が有るかもしれないな…。”
と少し心配しながらも、地震のパターンだから来た時のことだ!と思いながら、 音楽を聴き就寝、熟睡に入る……。
目覚めは“ん!どうした!”、途端に“ドカーン、ガラガラガラ、ドシャーンピシャーン、グラングラーン……”と部屋全体とマンションの建物自体が激しく 揺れ始めたのである。

その揺れは震天動地。阪神淡路大震災の時の様子を語った“直撃弾を受けたようだった”と当に同じ表現ができる。
幸い私は頑丈なスチール製二段ベッドの下段、妻は隣部屋の壁際ベッドに寝ていたので怪我は逃れた。 しかしダイニング・キッチンと三つの部屋それぞれは足の置場もないくらいグシャグシャの惨憺たる状況になり、ライフラインも当然のことながら寸断された。
この後、強い余震が頻発することから、強い揺れに注意しながら昼間は片付けそして夜は避難先が大混雑ということで車中泊を選択したのである。


その直撃弾の話。
昭和44(45年?)・島松(恵庭)で行われた特科大演習の際、 私達のレーダー班は着弾地の山の裏側に陣地構築して弾道標定(複数砲弾の捕捉)の任務についた。その演習とは、試射から始まり援護・支援射撃そして 各種攻撃射撃を想定した砲撃訓練で、戦車・高射そして戦闘機も参加した大規模なもので、現在ならば毎年富士山の麓(東富士演習場
/写真下)で 行われる総合火力展示演習をイメージすることができる。


203mm榴弾砲の射撃

着 弾

“ボン”・・・・・・・・“ドーン”が次第に“ボン、 ボン、ボン”・・・・・・・・“ド・ド・ドーン”の音に変わり、衝撃音も身近に感じられるようになる。 しかしながら、いくら山の裏側とはいえ砲弾が落ちる延長線上にいるわけなので、もし着弾距離が延びれば頭の上に落ちてくるのである。 しかし徐々にそんな不安も消え標定任務に集中する。
各射撃も順調に進み、いよいよ最後の一斉射撃になった。 すると小隊長から“標定止め! 各自衝撃に備えろ”との指示が下った。私は一瞬何が??と思ったが、“百門余の一斉射撃だ!”との声にすぐに納得した。
後方から“ボン×100”の音が聞こえた。すぐに“ドドーン×30”の重低音が伝わってきた。戦車だ!
そして次、“ガラガラガラ・・・”音と共に“ドシャーン×70(105・155・203㍉榴弾砲/155㍉カノン砲)”のものすごい爆発音の衝撃が 頭の上にきたやいなや車と共に身体が浮き上がり、激しく縦横に揺さぶられた……。
今も同様な訓練が行われているのだろうか?私は絶対に無いと断言したい。


今回は震源が浅い直下型地震の凄まじさを経験し、気象庁が言う、震度「6強」・「7」のランク云々 に関係なく、あらためて自然が持つ力(エネルギー)の偉大さを思い知らされた。
そして、修業時代の頃から度々訪れ大好きになった南阿蘇、 東京上野の学校での縁が元になり約2年間居住しお世話になった益城町に舞い降りた不幸には、とてもつらく切ない悲しい感情に打ちひしがれた。
さらには、馴染み深い阿蘇神社と熊本城の崩壊には心の底から大きなショックを受け愕然としてしまった。


熊本城石垣崩落

阿蘇神社拝殿倒壊


縄文の時代から、私達の祖先は、常に自然災害と背中合わせのある意味宿命とも言える 環境の下で生きてきた。
その永い長い年月の間にどのくらいの天変地異があったであろうか?先祖はどのくらいの災害を経験し、血と涙と汗を流して試練を 乗り越えてきたのだろうか?

災害の大小を合わせれば気が遠くなる数になるであろう。そうした日本の独特の風土から、山、海、川、草木、石など自然への 畏怖の念そして祖先の霊魂への感謝の気持ちが崇拝の形となり「神道」が生まれた。

神道の象徴が神社だ。 だが今回の地震で、1,200年以上の歴史を持つ阿蘇神社の拝殿、神殿そして桜門が倒壊した。私は、この尋常ではない異変を知った時、瞬間的に “地の神が怒られている”と感じた。

楼門
阿蘇神社倒壊
拝殿

「それは亡くなられた方々に対する冒涜であり不謹慎な言動だ!」と怒られると思うが、 東北大震災の時にも“天罰”と表現した知事がいたように、道義的とは違う自然観あるいは別の視点を持てば、そのような見方を否定することはできない。

私は、今回の熊本大分地震の背景には、「負(フール)」を選択し「幸」を疎んじた人心の浅はかさと乱れに、火の神健磐龍命(たけいわたつのみこと) 、 そして、加藤清正公の尋常ではない怒りが警告となって振り下ろされたのではないかと推理している。
そしてこの天変地異は、戦後にGHQ(連合軍)から洗脳された、 祖国を自ら貶める邪気が蔓延する限り、日本のどこかに繰り返し襲ってくる……目が覚めるまで繰り返し… そして……繰り返し・・・……。<上に戻る>



   

古流唐手トップ・Top

古流唐手ホーム・Home

レポート・Report